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東大生が何かの感想を書くブログ

映画『ミッドナイトスワン』を見て 恋愛感情の描かれない世界

(ネタバレあり)

草彅剛さんの演技が凄まじいという高評価を多く耳にして、久々に映画館に足を運んできた。結論から言うと個人的にはあまり好きになれなかった。とにかく雑にいろいろ詰め込んでいて腹が立つ。トランスジェンダーか、普遍的な愛か、光が当たるほど影も濃くなる天才か、描きたかったのはどれなんだろう。もちろんすごく良かった場面もあるけど、ディテールが際立つほど全体的な粗雑さが悔しい。脚本だけで胃もたれしそうなのに、カメラの構図も音楽も過剰に扇情的で、ここまでドラマチックにしないとトランスジェンダーの苦悩を描けないわけはないだろうと少し悲しくなった。

そもそも、凪沙さんがトランスジェンダーである意味をまるで感じなかった。シスジェンダーの女性でも男性でもバレエのつながりを描くにはあまり問題はないように思うけど、そうすればきっと陳腐な作品になってしまうのだろう。シスジェンダーでもトランスジェンダーでも成り立つ役がトランスジェンダーである意味はあるというか、そういう前例が続くことでいつかは悲劇的でないトランスジェンダーが描かれる土台ができるだろうという意味づけはできるけれども、繊細さに欠ける脚本からそんな慎ましい意図を見出すことは私にはできなかった。

この映画は、トランスジェンダーとして苦しむ凪沙さんのストーリーと、意に反して周りの人たちを飲み込んでしまう天才一果ちゃんのストーリーが混じり合ったものだったと思う。後者の重みが大きくなりすぎてバランスが崩れた原因は、やっぱりりんちゃんの死ではないだろうか。あの二人の関係をそれなりに丁寧に追ってきたはずが最後でりんちゃんが一果ちゃんの「養分」になったようにしか見えなくて辛かった。

ちなみに、個人的にりんちゃんと一果ちゃんの関係性は恋には見えなかった。りんちゃんが一果ちゃんに最初優しくしたのは暇つぶしにエイリアンだか捨て猫だかのを拾ったくらいの感情でしかなくて、その後一果ちゃんがぐんぐんと実力をつけていくうちにまさに飼い猫に手を噛まれたと感じて報復に個撮に参加することを提案した。友情と良心、どちらによるものかはわからないが、りんちゃんは予想に反して深く反省し、それ以降は大人しく一果ちゃんの成長を見守るようになる。あのとき屋上でキスしたのは、良心による自制からこぼれ落ちた支配欲からではないだろうかというのが個人的な見解だ。キス以降わかりやすい描写はなかったが、りんちゃんの病院にまで付き添う一果ちゃんや、二人でいるときのなんとも言えない湿った雰囲気からはただの友情にも見えなかった(この辺りの撮り方もすごく上手いと思う)。ただそれはやっぱり恋愛というよりは共依存のような、他に行き場のない感情をお互いにぶつけているだけに見えた。いうまでもなく一果ちゃんにとってりんちゃんは恩人であり、りんちゃんにとっても一果ちゃんは無二の存在だった。一果ちゃんの短期間での上達は間違いなくりんちゃんの自尊心をひどく傷つけただろうけれど、その後も一緒にい続けるならば、その劣等感が「特別な感情」に昇華されるまでそんなに長くかからない気がする。「特別な感情」を具体的に説明すると、ふつうの友達には抱かない憧憬の念だったり、身近な存在にそれを抱えることで生じる倒錯した心情(幸せを願いたいのか不幸を願いたいのかわからない辛さみたいな)だったり……要するに、必ずしも特別=恋愛ではないと思う。

そもそもこの映画の主題が普遍的な愛とされる割にいわゆる「まとも」な恋愛はあまり出てこない。一果ちゃんの母親はシングルマザーだし、凪沙さんに恋人はいないし、瑞貴さんは明らかに等価交換でない恋愛をしている。こう書くと双方向の恋愛関係を省くことで「普遍的な愛」にフォーカスを当てようとしたのかとさえ思えてきて、もしそうであれば脚本への悪口をいくつか引っ込めなくてはならなさそうだ。凪沙さんと一果ちゃんの愛は明確に双方向だけれど、そうでないものまで含めようとしたのならもっと面白い。一果ちゃん母の無邪気すぎる子育ても、彼女なりの愛の発露だったかもしれない。りんちゃんの一果ちゃんに対するままならない感情も、まだ幼いなりに彼女が憎いほどの才能ごと一果ちゃんを受け入れようとしたという意味では一つの愛のあり方だったのかもしれない。

 

もう一つ細部でどうしようもなく好きなところがあって、冒頭のバレエの先生の人物描写が素晴らしかった。大人なので、間違いなく何か事情がある一果ちゃんにもきちんと対応をする。けれでも決して聖人ではない。そんなことは才能ある生徒への指導にのめり込むあたりから存分に察することができるけれども、その一つ手前、一果ちゃんの体験レッスンでの振る舞いが完璧だった。バレエの経験があると口では言っても、明らかに裕福な家庭育ちではない一果ちゃんを一番前の真ん中に立たせる。気になったことを一果ちゃんに友好的とはとても言えない教室の中で構わず聞く。悪意があるわけではないけど、とりたてて善意も見られなかった。一果ちゃん母のように、引いた線の「内側」の人にさえ優しくできない人がいる。初期の凪沙さんのように「内側」の領域があまり広くなくて、気心の知れた同僚には優しくできても、遠縁の親戚に冷たくできてしまう人がいる。性に関係なく、自分の人生を生きるだけでいっぱいいっぱいな人はこの世にごまんと存在しているだろう。あまりバックグラウンドに触れられず、才能を見出した生徒に月謝の肩代わりを申し出たり出張授業を行ったりするくらい入れ込むことができる先生は、この映画の中で比較的余裕がある人物だと思われる。その先生でさえ「外側」の人にまで毎度毎度優しくしていられるわけではない。

先生は一定の信頼関係が築けてからは凪沙さんに対して全く偏見をぶつけることなく接していて、えこひいきされなかった生徒にとっては「良い先生」ではないだろうけれども、凪沙さんに一番感情移入した私にとってあの先生はリアリティのある範囲で「良い人」だったと言える。凪沙さんにフラットに接したのは、愛する才能の持ち主の保護者だったからかもしれないし、月謝を支払う・支払われるという明確な関係のもとだったからかもしれない。理由があってもなくてもいい。みんなに「良い人」だと思われるような聖人君子なんていなくてもいい。この映画の、誰かに理想郷を押し付けないところはとても好きだ。

 

鑑賞直後の感想に反して褒め言葉が続いてしまったが、ここからは本題の批判に戻る。

2時間くらいある映画なのに、序盤からやけに飛ばしていると思えば後半さらに加速していって驚く他なかった。一果ちゃんが転校初日にクラスメイトの男子を椅子で殴ったところは、母親から暴力的資質を受け継ぎかけていたところバレエや凪沙さんという光に導かれて脱せた、というように下限の可能性を提示することでその後とのコントラストを強調したかったんじゃないかと感じたけど、それにしても雑すぎないだろうか。かっとなって椅子で殴るっていうのは結構な暴力性で、セリフがほとんどない分一果ちゃんをここで感情移入の外に出してしまったらしばらく挽回できるところがないのに…と惜しくなった。私は最後まで一果ちゃんに共感することはできなかった。孤高の天才が描きたいだけなら観客の共感は不要だろうが、双方向の愛を見出すにはどちらに対してもある程度の共感が必要だろう。

あと、瑞貴さんがモブの頭をモップでかち割ろうとするシーンは必要だっただろうか?モブたちが、凪沙さんをはじめとするトランスジェンダーの方々を前にして絶対に地雷を踏むのも安直すぎる。凪沙さんが男装して行った面接の女性面接官の対応がモブの中では一番マシだったけど、あくまでもベターであってベストではないあの微妙な空気感を見事に再現しているあたり、やればもっとできそうなものを、罵詈雑言の使い古された感じは本当にひどかった。瑞貴さんは傷害事件を起こして、社会的な死を迎える。凪沙さんはここでは残るが、結局は亡くなる。結局最後に残ったのは一果ちゃんだけ。この弱肉強食のような構図が無性に嫌いだ。

個人的に、自立している様子や苦しみとの付き合い方から瑞貴さんより凪沙さんの方が「強い」人に見えた。自分のところまで堕ちてきそうな凪沙さんをつなぎ止めるのと引き換えに瑞貴さんは物語から退場した。生の苦しみと比較的共存できていた凪沙さんも、一果ちゃんという異物を内に引き入れて愛とやらを知ってしまった途端、現状維持ではうまくいかなくなって人生が狂い始めた。凪沙さんと一果ちゃんをつなぐ絆を十分に理解できていないのだろうという自覚はあるのだけれど、それにしても愛というよりは「孤高の天才」的な語りに見えてしまったのは、メインとなる二人の関係性の描き方の手前で瑞貴さんが凪沙さんの身代わりになったような形で退出したことが関係していると思う。

 

要するに、局所局所で驚くほど緻密な描写がなされているのに、全体的なくどさと古くささを感じてしまったというのが総括になる。俳優の方々の演技は素晴らしくて、凪沙さんが性転換手術をした後実家に帰るシーンは鳥肌が立った。草彅さんは最初から最後まで期待通りすごかったけど、凪沙さん母の演技にもびっくりした。自分を持て余した富裕家庭の女の子が性産業に走る様子は使い古されてて本当に嫌になったけど(同じ産業なのにより切実な凪沙さん側の世界との対比にしたかったとしても)りんちゃんがどうしようもなく好きだった。以上。

洋画『ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー』を見て

公開1ヶ月前からずっと楽しみにしていた映画を公開日に見てきた。こんなに特定の映画の公開を心待ちにしていたのは5年以上ぶりな気がする。ネタバレなしで書いているので鑑賞を迷っている方に読んでほしいです。

まず、鑑賞前は「青春コンプレックスを抱えた人に向けたセラピー映画」として認識していたしそれは事実だった。主人公たちに感情移入しまくりで、見ていてこんなに口笛を吹きたくなる映画はこれまでなかった。次に、予想以上だったのは女の連帯の描き方だ。生徒会長まで務めた典型的なガリ勉のモリーと、その親友で同じく結構なガリ勉のエイミー。この主人公2人の友情が最高なのは言わずもがなだけど、スクールカースト上位の一見いけすかない女子たちのことをただの嫌な女として描かれていない。でも「みんな善人、おめでとう!」みたいなわかりやすいハッピーエンドになるわけでもない。リアリティのある範囲で希望を抱かせてくれる、絶妙なさじ加減だった。

 

youtu.be

期待通り面白くて、予想以上に刺さって痛くて、勉強で何かを犠牲にしたという自覚の人みんなに見てほしい映画だ。例えば野球をやっていた人は毎年甲子園を見て胸が熱くなるのだろうし、「青春を犠牲にした」タイプのガリ勉はそれを指をくわえて眺めていることしかできない。この映画は、そういうガリ勉が拳を振り上げて、過去の自分を応援するような気持ちで感情移入できるコメディ映画だ

私は中高一貫の女子校に通っていたので、大学受験より中学受験の頃を思い出して本当に胸が痛くなった。中学受験では、小学5年生からはもう塾が忙しくてだんだん学校のみんなとは疎遠になっていくのがお決まりのパターンではないだろうか。私はこの映画を見ていて、ある記憶が痛いほど蘇った。このエピソードに少しでも共感していただける方は絶対に楽しめる映画なので、暫しお付き合い願いたい。

受験が終わったあとに中学準備講座というものが塾で開かれていた。勉強する気はまるでない悪ガキが、これまで抑圧されていた分やりたい放題騒ぐために受講するという、家計がただ損をするという代物だった。小学校の友達より塾の友達と長い時間を共有していたこともあって、私はそれが楽しみでしかたなくて、その講座がある日は学校の授業が終わったあとに走って帰宅していた。そうしたら、かっこいいなあと思っていたいわゆる1軍の男子に「なんでそんなに急いで帰るの?もう受験は終わったのに、そんなに勉強が好きなの?」と言われて、学校にも親しい友達がいたらこんなことはしないという気持ちを噛み締めて、「悪い?」とだけ返して走って逃げたことがあった。

母親に打ち明けたら「なんでそんな可愛げのない答えをしたの?」と言われたこともあってかなり苦い思い出なのだけれど、この映画は「もし変なプライドを持ったりせずに、学校の子たちと馬鹿騒ぎできたなら……」という期待を抱かせてくれる。

 

いや、自立した女性になりたいとは思ってるし、21世紀なのに男性に従属した生き方なんて御免だと思ってこれまで努力してきたよ!でもそれとスクールカーストの高い男子に憧れてて、できるもんならチヤホヤされたいっていう欲望は別だよね!?という矛盾した気持ちを体現した映画なのである。しかもこの映画のスクールカースト高め男子は、ちゃんと接してみるとみんな憎めないイイ奴なのもわかりすぎてしんどい。こじらせているあまり、こっちが色眼鏡かけて勝手に境界線を引いてるだけなパターン、現実でもあるよね。

とにかく登場人物は揃ってぶっとんでいるのにちゃんと血の通ったキャラクターなのが本作の魅力だと思う。しかも主人公コンビが自分の経験を上回るレベルのガリ勉なので、メタ的だけでない面白さもある。パンダの枕詞として「絶滅の危機に瀕している」が漏れなくついてきたり、大胆な行動に出るか悩むときに該当する偉人がいるか検討してみたりする。それなのに肝心なところで抜けていて、人を疑うことを知らないとか計画性がないとか、年相応の幼さもあって親近感を抱く。

(追記)

ただ、一つ気になったのはモリーとエイミーが同級生の運転する車で内緒話をするために中国語を話すシーンがあるのだけれど、本当に発音がひどかった。近づけようとする努力すらしていないのではないかと思うほどで、「ガリ勉の秀才」という映画の根幹をなすアイデンティティに疑問を抱いてしまった。最近見た『コンフィデンスマンJP プリンセス編』では、中国への留学経験のある長澤まさみさんが主演なのも影響しているだろうけれども、かなり中国語の発音がきちんとしていた。アメリカの映画は世界各国でかなりのシェアを占めていて、だからこそその制作には潤沢な予算や卓越した才能が集まるはずなのに、こんなに他言語に無頓着なのはなんていうか、フェアじゃないなと思う。以上ぼやきでした。

(追記終わり)

いやあ、もうモリーの恋路に感情移入できすぎて、痛かった……。でもエイミーとの友情も熱くて、モリーが釣り合わないと感じて押し殺してきた恋心をエイミーに打ち明けるシーンは号泣した。この尊い友情があるだけで勉強だけの高校生活ではなかったことはわかる。

これを見ても青春コンプレックスのすべてが癒されるわけではないけど、少なくともスカッとはした。あと、イケてる女性教師のファイン先生を反面教師にして、くれぐれも自分はそれに縛られて20代を無に帰す事だけはやめようと決めた。過去のコンプレックスを晴らすにせよ短期決戦だという教訓を与えてくれる、貴重な映画だった。

 

最後になりますが、Sexy Zoneの『Hey you!』という曲は自分の中で音楽界の『ブックスマート』の立ち位置なので、この機会に歌詞を見てほしい。

Hey you!   どうだっていいじゃん Say so! 何、気にしてんだよ

勉強ばっか それが君のOn stage

好きなアイドルが勉強こそが私の見せ場なんだって歌ってくれるなら何を気にすることがあろうか、いやないでしょう。

勉強ってみんなやらなきゃいけないものだから、たまたま自分はそれに従事してそれなりの結果を得たけれど、別にそれは単なる帰結であって自分で選んだものではないっていうコンプレックスが割と最近まであったんですよね。スポーツとかピアノとかは、勉強より能動的な、自分で選び取った「個性」に見えてずっと羨ましかった。

でも最近、野球を小学校から高校まで12年間続けた人に「なんとなく続けてただけだよ」って言われたことが、自分にとっては革命的な出来事でした。そうは言っても12年間一つのスポーツを続けることって私からすると途方もないことで、もちろん変わらず尊敬はするけれども、別に勉強だけを卑下することはないかなって思えるようになった。たまたま中学受験をして勉強が自分の本分みたいになった自分と、たまたま小学生の時に友達と野球チームに入ってずっと続けてきた誰かを比べて、優劣をつける必要はないよね。どちらも幼い頃の選択がシームレスにつながった結果でしかなくて、それ以上でもそれ以下でもない。こんな当たり前のことに気づくのに何年もかかってしまった。

映画や音楽がそれ単体で私の人生を丸ごと肯定してくれることはあまりないけど、でもこうしたコンテンツが揺らいだ自分を支えてくれたり、自分を過小評価する前提となっていたものを見つめ直すきっかけをくれたりすることはやっぱりあって、副次的に自己肯定につながるのではないかなあと思う。

ガリ勉が勉強しか取り柄がなくてもいいじゃん!ってカラオケで歌うこと、かなり爽快感あるのでおすすめです。もう一度繰り返しますが、Sexy Zoneの『Hey you!』です。

勉強以外にも、背の低い「ボク」と背が高いのにハイヒールを履く「君」の恋路が歌われていて、

Hey you! 君はハンバーガーで Say so! ボクはスイーツ

飲み物だけは一緒にしよう

これやばくないですか?一般的な男女の規範とされてるもののアンチテーゼって言ったら途端にこの楽曲の魅力が失われてしまうくらい、かわいい曲なのに言っていることはすごく先進的という……アイドルが歌う曲の完成形とも言えるものを2015年に出しているグループなので本当に侮れない。まだファンになって日が浅いので既存の楽曲を追いかけている途中なのですが、毎日ワクワクしています。以上。 

Netflix『ネクスト・イン・ファッション』を見て 画一的な文脈の限界

(ネタバレあり)

このシリーズは公開直後に一気に見たのだけれど、自分の中ですごく好きだったので最近また見返していた。映画を見て得たインスピレーションを音楽に落とし込んだり、服に落とし込んだりする様子は見ていてワクワクする。

 

感想を端的にいうと、自分の評価と審査員の評価がさほど乖離していなかったのでかなり楽しく見られた一方で、「商業的すぎる、もう少し攻めて」と言ったり、かと言って攻めすぎたら「これは売れると思うの?」と言ったり……まあ要するによい塩梅を見極めることこそがセンスなんだろうなと。ただその「塩梅」というのがあまりにも曖昧で、膨大な文脈を読む必要があるということが気になった。

ネクスト・イン・ファッション』を謳い、デザイナーにそれを要求する割にそれは思ったより窮屈に見えたのだ。例えば、有名なアーティストのスタイルや20年代〜70年代くらいのトレンドを理解した上でその踏襲に収まらない何かを生み出す必要がある。おそらく名門の服飾学校を出ることや、欧米でデザイナーとしての経験を積むことでその感覚を養っていくのだろうけれど、その膨大なインプットと矛盾しないイノベーションは難しそうだというか、結局求めているのは「従来の伝統を脅かさない形での革命」なのではないかという印象が拭えなかった。

ただ、全くの門外漢である私の評価軸もそのような「ファッション界のスタンダード」に依拠していることは確かで、最後のダニエルとミンジュによるコレクションについてはより実用的なダニエルのものの方が好きだったし、ファライ・キキ組のデザインに野暮ったさのようなものを感じてしまった。このコンビは少し見ていて辛かった。

スーツを扱う回で、「こっちで働いたことがなくてスーツを作った経験がない」といった旨の発言をしていたと記憶しているのだけれど、彼女たちは技術や経験において完全に劣位にあって、自分の出自という一つの物語を持っているだけだった。非西洋文化をもっと正当に扱おうとする態度はこの番組も持とうとしていて、だからこそ彼女たちをキャスティングしたのだろうけれども、彼女たちの扱いに困っているのは明白だった。でもこれは番組が悪いと思う。完全に異なるバックグラウンドをもつ二人を突然自分たちの土俵に引っ張り出すのは、断じてフェアなスポットライトのあて方ではない。せめてどちらかが名の知れたメゾンで働いていた経験があればもう少し違っていたと思う。デザインの優劣というより、作法をわかっていないと戦えないという話だ。

ただ、どちらがドロップアウトするかで揉めたクレア・アドルフォ組もなんとも言えない気持ちだったのではないかと思えてしまう。「語るべきストーリー」のようなものは、おおよそは自分でコントロールできない要素である。アフリカに生まれるよりもヨーロッパやアメリカに生まれた方が圧倒的にデザイナーは目指しやすいと思うけど、どちらに生まれたとしても本人が望んでそうなったものではない。正直、突然多様性だなんて言われても、それを考慮されずに済んだ先人よりも夢を叶える倍率・難易度が上がったように見えて不服に思うことだろう。

ちなみにこの構図は、就活での総合職の内定の取りやすさについて「女子はいいよね」と言ってくる男子大学生に似ている。私は働くという点において男性に生まれたかったと思わなかったことはないのだけれど。

 

それに対して、エンジェル・ミンジュ組はそのバランス感覚をうまく利用できていたのではないかなと思う。個々の語るべき物語を表現するためにはセンスに加えて、「主流」の理解とたしかな技術、経験が不可欠だということがよくわかった。もちろん二人とも、それと関係なく才能に恵まれているとは思うのだけれど、この二人が生み出した数々の楽しいデザインがあるからこそ、そのアフリカにおけるカウンターパートも探し得たのではないかと思ってしまう。

ただ、必ずしも語るべき物語が必要なわけではない。この番組で評価されるポイントは、「真新しさ」と、あとは意外なことに「既存の文脈での圧倒的クオリティ」の二つに大きく分けられるのではないだろうか。後者を象徴するダニエルは、ゲイだというアイデンティティこそあれど(ファッション業界では語るほどの希少性にはなり得ないのだろうか)、あまりそれを前面に出すコンセプトは用いず、最終回でも圧倒的なcraftsmanshipこそが彼の本分だと審査員に評価されている。ダニエルのつくる服は本当に好きだったな。一般人である私から見て彼のつくる服は、無理がないというか、選ばれた人に独占されるようなファッションではない。アートとしてのファッションとみんなのファッションに近づけるに際して相対的に地味にもなり得たけれど、そこを技術の手堅さとセンスで綺麗に乗り切っていた。私はやはり王道エリートのつくった服に安心感を抱いてしまうようだ。

 

チームワーク不足で序盤に散ったチームについては本当に惜しかったが、きちんとチームとして機能しているところはどこも印象的だった。マルコ・アシュトン組については舞台衣装っぽさが総じて強く、審査員に刺さらなければcostume-yだというネガティブな評価を受けることも多々あったけど、「それが自分たちのスタイルだ」と覚悟の上でやっているのがとてもかっこよかった。マルコが脱落することになるミリタリー回で、「スーパーマンのようだ」というタンのコメントに少し構成を変えた。それも自分の趣向とファッションという文脈への理解が両方とも一定レベルに達して、さらに技術も伴ってこそできることな気がしたし、やっぱりファライ・キキは損な役回りだったなあと思えてしまう。ただ、憧れのデザイナーが彼女たちのためにあのように立ち回ったことが救いになっているといいな。個人的にはデニム回でトミー・ヒルフィガーがきて、アシュトンの作品に"The high-weisted trousers, I think, were a home run."と言ったとき、自分のことのように嬉しかった。卓越したデザイナーに自分の作品を批評してもらえるというのは、きっと私には想像できないくらいの喜びなんだろう。

 

 

今のところシーズン2が予定されていないというのは本当に残念だ。「これ、欲しい!」と幾度となく思ったし、散々書いてきた通りこの番組が則るファッションの文脈はそれ自体に多くの問題をはらんでいる一方で、予備知識なくこんなにもファッションを楽しめる番組構成は高く評価されるべきだ。アンジェロ・チャールズがつくったフーディーのワンピースと、ダニエルのつくったえんじ色の水兵風トップスが忘れられない……。

ヘッセ『車輪の下で』を読んで自分を嘆く

(ネタバレあり)

個人的に好きな光文社古典新訳文庫から出ているものを昨年読んだ。ずっと前に下書きに入れていたこの文章の存在を、韓国映画『はちどり』と漫画『BEASTARS』の鑑賞のあとに思い出し、このタイミングで手直しして公開することにした。めちゃくちゃ情緒不安定だからもう少し我に帰ったら修正すると思います。
 
この本は頑張れない自分を戒められたら、という思いで昨年読んだのだけれど、結論から言うと頑張れない人を戒める本では決してなかった。むしろ読んだあとには、誰かにそのままでいいんだよと言われているような、なんとも形容しがたい安心感に包まれた。作品の終わり方に希望はないのでグロテスクな理由しか想像できないが、ハンスよりはマシな状況にあると思えるからなのだろうか。

ただ、ハンスが神学校の中で亡くなったんじゃなくて本当に良かった。あの場で無理をしていることは伝わってきたし、そもそも深酔いしていなければ命まで落とさなかったかもしれないが、ハンスが最後にアウグストたちと華やかな一夜を過ごせたことは私にとって大きな出来事に見えた。最後の晩餐だとかそういう意味ではなく、それまでの人生でのハンスの付き合いはいつも1対1の閉じた関係ばかりだったから、大人数でバカみたいに騒ぐという新しい、そして「普通」の交友関係を持てたのは良かった。

さほど年は離れていないはずなのにハンスをどこか親のような視点からみてしまうのは、後世の人間としてハンスが特別すぎるわけではないことがわかるし、でもそのような閉じた社会でハンスが普通の人間とは全く違う存在のように扱われてしまうこともわかるからだろうか。田舎の親類の家に行くと、還暦に近い「近所の田中さん」の話をするのに必ず高校名が出てくることを思い浮かべながら、自分が彼の立場にいたら、生死はともかくやはり「潰れ」ていただろうと思う。「逃げる」とか「潰れる」とか、最初に出てくるのはそういう言葉だ。私はいつまで経ってもエリート至上主義から抜け出せない。

 

前述の漫画『BEASTARS』は、主人公のハイイロオオカミであるレゴシが、肉食獣という逃れられない自分の強者としての立場にひたむきに向き合おうとする物語だ。その中で彼は、まるでそれしか選択肢が考えられなかったかのように、嘘のようになめらかに、退学という道を選ぶ。私はその瞬間から、他に何も考えられなくなる。どうしてその道を選べるのだろう。羨ましいわけでもなく、見下すわけでもなく、でも静かに「共感」の範囲から外れていく

きっと私は感性が愚鈍で臆病だったから、ハンスのようにならなかった。「負け」たくなくて東大に入って、同じように就職先を選んで、なんとかこれから先もこの価値観に沿って生きていくことが確定した。それで安心したのか、今になってこの愚かさを声を出してもがいている。もし途中のどこかで「ドロップアウト」していたら、全世界に公開しているブログでこんな感情を叫ばなかったかもしれない。

 

私は保守的で既存の価値観を打破できない人間なので、ハイルナーにはなれないし、なりたいとも思わない。勉学にやる意味を見出せなかった神学校時代のハンスに一言言うとして、与えられた学問のうち一つでもいいから好きになれだとか、友達や趣味など生活の中にはけ口をつくれだとか、本当に陳腐なことしかいうことができないだろう。

ハンスの死に理由を求めるなら、その友達がハイルナーだったのが運の尽きとも言える。しかしこのような出会いは神学校を卒業した後でも訪れ得るし、普通の人よりも圧倒的に「自分と違う人間」に心酔してしまいがちなハンスの人格を形成したのはやはり学歴至上主義の大人たちである。

この2段落は下書きにあった、自分で書いたものだけれど、「自分と違う人間」に心酔してしまうのは私も同じなのに、どうやら去年の私はそれにさえ気づけてなかった。

いろいろな形のエンターテインメントの中から、なり得なかった自分を探して、上位のものとして崇めては、それになれなかった自分を慰める。例えば、レゴシが世間からの目というファクターを一切気にせず学校を辞められたのはかっこいいし、ハンスが陶酔できるような人とあんなに密接な関係を持てたのは羨ましい。でも私にはもう無理だなあ。こうやって、ずっと何かの「受け手」であり続けて、だからまとまった量の感想を発信することで何者かであろうとするのかもしれない。

自分の価値観がすべて借り物のような気がするのは他人の目を気にしすぎるからで、だからここ10年ほどの間に日本で書かれた小説は好きじゃない。自分のような人がたくさんいて、しかもその心情が事細かに説明されてしまうと、同族嫌悪で息が詰まりそうになるのだ。

 

さて、ここまでは散々こじらせっぷりを露呈してしまったが、ここで仕切り直してもう少し冷静にこの本について書く。

私が一番激しく動揺したのはこのシーンだ。

「理解できません」とギーベンラートはため息をついた。「あれほど才能があったのに、それにすべてうまく言っていたのに。学校も、試験もーそれなのに、突然不幸が次々に襲ってきて!」

ハンスの死を前に、こう嘆いた父親に読者がどれだけ傷ついたか、言った本人はわかるはずもない。普段私はあまり物語を深読みできない性質の人間なのだけれど、この場面ではヘッセが周りの大人たちを実に直接的に、そして痛烈に批判しているのが読み取ることができた。
「ため息」「突然」「不幸」
ハンスの死は不幸なんかじゃない。周りの好意と称したお節介が、ハンスの将来の栄光に少しでも関わった痕跡を残したいという欲望が、ハンスを殺したというのに、当事者たちは葬儀に参列してもなお自らの罪に無自覚だなんて。
 
私は中高一貫校に通っていたのだけれど、高校3年生の時に友人が「中学受験のときは自我がなかったから頑張れた。でも『勉強しない』という選択肢がある今、大学受験を頑張ることができない。」と言っていたのを思い出した。
この言葉になぞらえると、ハンスは勉強に打ち込まなければならないという環境に身を置かれ、そうでない人々に優越感を抱くような価値観まで刷り込まれていたのに、突然自我が目覚めてしまったのだろう。おそらくはヘルマン・ハイルナーという天才によって。
ハイルナーはキスしてみたり積極的にその価値観を見直すよう促してみたりというように、散々ハンスをかき乱して、そのくせ神学校をやめたあと一度も連絡をよこしてこない。これがハイルナーが天才であることの、そして天才は友人としては時に残酷な存在になり得ることの証左である。


しかし、熱心な教育の末に親の期待を全て実現する人もいる。追い詰めてしまう家庭と、うまく「実現」させる家庭には何の違いがあるのだろう。現代の様子から推測するに、親が同じ道を辿ってきたかどうかというのはかなり大きな要素であるように感じる。この本ではオットー・ハルトナーがその例だ。親をサンプルと見なすことができれば、ゴールを過度に崇拝しなくていい。韓国映画『はちどり』や中国映画『少年的你』に見られるような、「トップ大学に受かれば全てが報われる」といったまやかしを真に受けすぎずに済む。望んでいた肩書きを手に入れることは、それ自体で持続的な幸福を生んでくれるようなものでは決してないのだ。でもそれは入ってからようやく知ることができる。親の経歴とかけ離れているほど、子の達成したときのギャップは大きなものとなるだろう。


さらにハンスには、神学校を卒業したところでやりたいことが何もなかった。しかし、頭が良かったせいで大人に余分な重荷を背負わされてしまった。そう考えると、自分にとって何の意味ももたないことに青春を費やしてしまったと悟った反動があれほどまでに大きかったのもさほど不思議ではないし、ハイルナーを「ハンス自身には欠けている魔法の力で空中を歩」く人(p.131より)と評して陶酔していたのもわかる。ハンスにとってハイルナーは言葉に命を吹き込んでくれた存在なのだろう。
 
それにしても、父親のハンスへの向き合い方に違和感を覚える。例えば、父親が遺体と向き合っている時の描写(p.286)で、ハンスが「まるで何か特別な存在であるように」だとか、「花盛りのときに突然手折られて」だとか、地上に舞い降りた天使のように扱われているのを見て、子供を天使と見てしまうことの悲哀を見たように感じた。れっきとした人間なのに、優秀すぎるからか、彼にとっては天使なのだろう。母親がいない中で息子の捉え方を変える術はありそうになく、どうしようもない。これはひたすら悲しい家族の物語でもある。
 
この本に描かれている教育制度から、全体主義らしさを感じたのはきっと私だけではないだろう。ラテン語学校の校長の独白が記されたp.77あたりを読めばわかるが、一箇所だけ取り出すなら「彼の〜仕事とは、うら若い少年の生来の荒削りな力と欲望を制御して根絶し、その代わりに静かで節度のある、国から承認された理想を植えつけることだった」という部分が最もわかりやすい。現代中国が自分の関心分野であることから、教育での刷り込みのようなものが現代もなお続いていることは重々承知しているのだけれど、こうやって教育者側の立場の独白という形で見ると、思考が植え付けられることのおぞましさが際立つ。

 

最後に、この描写の切なさを訴えてこの記事を終わりにしたい。

「木の梢が切られると、その木は好んで根っこの方に新しい芽をつける。花盛りの時期に病気になり、損なわれてしまった魂は、しばしば人生の初めの春のような時期、予感に満ちた子ども時代に戻ってゆく。〜根っこに出てきた芽は潤いも多く、急速に成長する。しかしそれは見せかけの生命であって、決して一本の木になることはないのだ。」

どうしてこんなにも美しく、そして冷淡にハンスの心が壊れてしまったことを描写するのだろう。例えがあまりに風雅であるからこそ、そのコントラストからハンスの心の決壊がより切なく、残酷に描かれている。本当に表現が豊かな作品だったので、もう一作くらい読みたいと思いつつロシア文学も気になる。ひとまずやることが多すぎるので、今月末まではできれば小説・ドラマ・漫画は禁止にしたいところだ。映画はセーフ。

韓国映画『はちどり』を見て 頑張った先に行き着く安寧はあるのか

(ネタバレあり)

今日、『はちどり』を見てきた。平日の午前なのに半分くらい人が入っていて、エンドロールのときには周りから鼻をすする音が聞こえた。映画館ならでは一体感はコロナ禍においてより一層慈しみたくなるものだが、ことにこの映画については、これだけの人がこの映画を見て、そのうちの何割かが自分と同じように共感して感情を揺さぶられているという事実に大変慰められる。見知らぬ鑑賞者がパンフレットを買っているのを見て、ああ、この人もどこかの描写に自分を見出したのかもしれないと息を吐く。この映画からどれだけの希望を見出すかという点において、「ひとりじゃなかった」というこの気持ちはかなり寄与してくれたように思う。

『はちどり』は、鏡のような映画だ。自分(直接経験したことだけでなく普段考えていることも含めて)をどれだけ投影できるかによって、映画に入り込める程度が大きく異なると思う。例えば女性と男性とでは高評価の割合が大きく変わってきそうな作品だ。

私の場合はというと、家父長制、大学受験戦争、努力は報われるという新自由主義の綻び、そして、感情はうつろいやすいのに痛みだけはいつまでも消えてくれなかったあの頃の記憶……撒き餌はたくさん見つけられたのに、分かりやすい答えは一つも与えてくれなかった。スクリーンの中に過去の傷を見たら、当時より成熟したはずの心を携えて答えを探しにいかなければならない。でも確かなのは、ひとりじゃないことだ。

恋や友情における苦難についても、あの頃の自分を思い出した。感情はすごく曖昧なもので、好きも嫌いも、 いつの間にか混じり合っていく。嫌いだけど好きだったし、好きだったけど嫌いだった。結局、その人を失った穴はその人でしか埋められないような気がして、相反する感情に折り合いをつけるという自覚もなく狭い世界で日々を過ごしていた。「昨日のは今日の友」なんて、本当にそんなことがありえたのだ。

ウニが感情を表情に出さないから、勝手に過去の自分を投影して、何度も泣いた。私にとっては、気づいていなかったあのときの傷を癒すセラピーにもなっていたのかもしれない。友達に切り捨てられたと感じたウニのつらさに共感して泣いたのか、ウニのようにつらさを主張できなかった自分を慰めて泣いたのか、わからない。

 

でも、この映画を見て最初に思ったのは、やっぱり人にはそれぞれの地獄があるということだ。ウニの家庭は見るからに歯車が噛み合っていないけれども、同じ集合住宅に住む無数の家庭にそれぞれの苦しみがあって、相対的に比べることなんてできない。

この映画は一貫してウニの視点に立っているけれど、それでもウニとの関わりを通じてほとんどの登場人物に関して、それぞれの地獄が浮かび上がっていた。いつ、どうしたら解放されるのか、みんなまだ答えを見つけられていないように思える。模索していた人、もう諦めて受け入れた人、今以外の人生が想像できない人。ウニは何が起こっても、毎日をたしかに踏みしめていく。

「もう何もかもが嫌になった、今日は何もしたくない」と思ったとき、本当に何もしないで一日を過ごせるようになったのはいつからだったろう。拒むことにも自我がいる。ウニのクラブ通いや万引きは、自我が目覚める過程で起きた感情の暴発に見える。その一方で、下記のように私が「解放」と捉えているものを、手紙の文中で「私にも輝ける日々」としたためるなど、将来への希望を所与のものとして捉えるみずみずしい感性も持っている。大人になって自分の心境を表す言葉をたくさん知ったけれども、彼女の持つ芯のようなものを手放さずにいられているのか、正直自信がない。末っ子なのに家族の中で一番気丈に振る舞っている人、それがウニの印象だ。

この2時間半の映画の中で、平凡な中学2年生であるはずのウニの身にはいろいろな災難が起こる。大きな出来事は起こらないと評する人もいるけれど、ふつうの中学生にとっては波乱の一年だったと言えるのではないだろうか。そして、よくよく考えると始まりも終わりもさほど離れていないと気づく。すなわちこの映画の中で、事態は大きく好転も悪化もしていないのだ。10年後に振り返るともっと大きな文脈の中で位置づけられるような、そんなあいまいな時間軸に私たちはいた。

 

漢文教室のヨンジ先生は休学中だけれどもソウル大学の学生だという。ウニの学校の教師も、父親も、成功を示す符号のように「ソウル大」と口にする。でもヨンジ先生が幸せで、何もかもを手に入れたように見えるだろうか。

90年代は、明らかに今よりも学歴社会だったのだろう。そこからの離脱を叫んでおきながら本質的には何も変わっていないと思っていたけれど、これでも大学受験という局所的な競争からはある程度逃れられていたのか、と本作を見るとわかる。中学受験の記憶が蘇るような宗教っぷりだ。映画『少年的你』を見る限り、中国における大学受験はちょうど今こういった様相を呈しているようであるが。

一度のテストで高い点をとっただけでそれから先の人生が救済されるなら、そんなに楽なことはないだろうーこう言えるのは私が偶然にもそれを得たからだけれど、だいたいの場合すべてを手に入れることはできない。得たものの裏には必ず失ったものがあって、大学受験を終えた私は、犠牲にしたものに「東大」より高い価値を見出すようになる。

いたちごっこである。努力して何かを目指すことには、終わりがない。いましがた「東大」の外の話をしたけれど、「東大」の後もずっと階段をのぼっていく必要がある。就職、昇進、転職、それから結婚、子育て。手に入れられなかったものも欲しいし、手に入ったものもずっと手入れが必要なのだ。大きくドロップアウトすると、「東大まで行ったのに」と言われてしまうのだから。

そうやって頑張り続けて、どこに行き着くのだろう。何を得ても結局真の満足感には辿り着けないんじゃないだろうか。昇進や子育てなど、自分の力ではどうにもならないようなところで諦めがつく人もいるだろうけど、それってずっと先のことに思えるし、そこで終われる確証もない。14歳の中学生と変わりばえせず、私も今の苦しみに一生囚われているような気がしてしまう。

 

パンフレットでは、戦後の韓国における1994年という一年の存在感の大きさについて解説されている。急速な経済発展の行き詰まり、そこからの方向転換。「失われた20年」もとい30年を経ても、きっと私たちはまだまだこの映画の価値観から逃れられていない。

このように心の底から主張する一方で、自分や社会がこの価値観から独立する未来は見えない。頑張っている人がえらい、頑張らないのは悪いことだという規範の影響範囲は大きい。「高ければ高い壁の方が 登った時気持ちいいもんな」と歌われたのは1999年だけれど、令和になってもスポ根漫画は人気だし、私もエンターテインメントを燃料にして辛い日々を乗り切ってきた。

頑張ることって大体いつもしんどい。多くの人がその辛さを麻痺させるために物語を必要としていて、漫画やドラマといったコンテンツや、プロのスポーツ選手やアイドルといった他人の生き様にそれを見出そうとする。社会全体で努力信仰が保たれているとも言えるけれど、それだけ必要とされている現実があるわけで、恣意的に維持されているのではない。この映画だって、従来型のわかりやすいエンパワメントではないというだけで、寄り添うという形で鬱屈した努力信仰の延命を手伝っているという見方もできてしまうわけで。

この映画の中でも14歳ですでに親の価値観が内面化されている様子が伺えたと思うが、このようにして世代を経てもこの価値観が受け継がれてしまうのである。ただ、例えば大学受験におけるハッピーエンドが東大合格だとして、達成後も努力至上主義に苛まれ続け、その後の人生ずっと何かに追われているような気持ちで生きていくとしたら、それは良い選択だと言えるのだろうか。その先は幸せな人生につながっているのだろうか。これについては今後、個人的な問題として考える必要がある。そもそも人生における至上命題が幸福であるとする価値観自体、一元的であまり好ましいものではないけれども、それはさておき…。

こうやって書いてみると、私が映画に投影したのは新自由主義からの解脱への願望だったようだ。わかりやすく今の心境が反映されてしまった。作中で見られる(家庭内での)男女の扱いの差や過度な受験戦争について、課題意識は持ちながらもそこに自分の姿を見出せないのは、親に恵まれたということでもあるのだろう。

20年以上経っても窮屈だなあと思うけれど、男女の立場や弱者への不寛容など明らかに今よりひどい部分も多くあるわけで、こうやって少しずつ進んでいくものなのだと言い聞かせるほかあるまい。願わくば10年後にもう一度見たら、違う感想を抱けますように。

重松清『疾走』はなぜ読者に生への渇望をもたらしてくれるのか

(ネタバレあり)

私は重松清の『疾走』という作品が、小説の中で一番好きだ。小学生の頃から、自分の教室だけでなく空き教室の学級文庫まで漁るほどの小説好きで、自分で小説家を目指したこともあるくらいだけれど、これほど凶暴な作品には出会ったことがない。 

けれども、この作品のはらむ暴力性や性描写から、友人に勧めることは憚られる。そして自分でもこの作品への感情はずっと手に負えないものだった。

なのでここで自問自答してみようと思う。

なぜ私はこの作品がこんなにも好きで、胸の痛さに比例するように生への執着を得るのだろうか。性描写の無駄な多さを理由に毛嫌いしている村上春樹の作品と同じくらい、この作品にも性描写は多く出てくるのに。

 

私にとって「おまえは」という二人称を貫く文体はあくまでもファーストインパクトであって、本題ではない。中高生で読んだときは素直に神父が語り手だと思ったけれど、いま読み直すとその解釈は自分には合わなかった。私はやはり語り手は「神」で、「神」はどこからか彼の不遇をずっと見ているのに、一度も助けてあげない。でもずっと、見ている。なんて薄情なんだろう、よくずっと見てられるね、って思う。

この小説の登場人物の中で私が一番近いのは、シュウジの中学3年のときの担任で間違いないだろう。不遇な人をちょっとかわいそうに思ったりして、何かできないか模索してみて、でもそれが受け入れられなかったら気分を害する。そんな程度の人間で、でもこの世に「まとも」に生きるにはこうするしかないじゃないかって自己正当化する。

私はこの世にシュウジが存在しないことを、この素晴らしい作品がフィクションであることを、ささやかな良心から本当に感謝しているが、それは彼の人生は「報われない人生」だったからだ。私の現在の価値観に照らし合わせると、それ以外に言いようがない。

シュウジは私よりずっと誠実で、優しくて、責任感があって、「ひと」を諦められない人だった。彼は「ひとり」を志向しているけれども、でも彼をかたちづくるのはいつだって他者と、他者との関係における自分だった

そんなにまともだと、人を殺すような人ではないと言うなら、シュウジはもう一人の私と言えるのか?彼ほどのボタンのかけ違えがひとたびに起こったらー兄が放火犯だとわかって、一家離散してしまったらー自分も中卒で地元から出て、人を殺して、昔好きだった子と再会して、人を殺した罪を自分だけでかぶろうとしただろうか。

答えは絶対にノーだ。ありえない。シュウジの選択には全く同意できない。シュウジの人生では、サイコロで6が出てほしいときに決まって1が出るし、そのほとんどは人災に見える。なのに、それでも人と交わることを本当の意味で諦めていない。

私なら絶対に諦めて、折り合いをつけて、本当に「ひとり」で生きていくのに。

 

仲間が欲しいのに誰もいない「ひとり」が、「孤立」。

「ひとり」でいるのが寂しい「ひとり」が、「孤独」。

誇りのある「ひとり」が、「孤高」。

エリは、まちがいない、「孤高」の「ひとり」だった。

この定義に従うなら、シュウジはまちがいなく「孤独」だった。彼は結局、他者との関わりでしか自分を規定できていなくて、「ひとり」であろうとするこ執着はその裏返しなんじゃないかと思う。 

にんげんのやってはならないことをする、死ぬ前に、死ぬから、死ななければならないから、お母さん泣いてくれるかな俺が死んだら泣いてくれるかな、お兄ちゃんが死ぬより悲しいかな、泣いてくれなかったら嫌だな、俺は百パーセントの「ひとり」だから誰も泣いてくれないのかな

「こんなことがあった」から死ぬのではなく、「こんなことがあるだろう」と思うから、死ぬ。ひとは首をかしげるだろうか。あきれて笑うだろうか。「だって」と返してやろう。「死なないと、ずーっと『いない』ままになっちゃうじゃないか」。死ねば、「いる」。苦い記憶になって、いつまでも奴らの記憶に残る。ざまあみろ。

兄が連続放火犯だったと分かり、父が出ていき、学校ではいじめられ、シュウジは自殺を図る。自分の手で死のうと行動に移したのはこれが最初で最後だった。結局未遂に終わるのだけれど、シュウジにとって死は「ひとり」から脱するための手段のように見える。つまり、彼はずっと生きる意志のある者だったと言えるのではないだろうか。彼が殺した新田と同じように。

このあと、自殺を盾に陸上部が出場するロードレースを中止させようともしていた。脅迫電話の甲斐なくロードレースは開催されたけど、シュウジはやっぱり死ななかった。

 

 

長くなったけれども、なぜ私はこの作品から生への渇望を得たのだろうか、という問いへの答えについて。

 幸せになるために人は生まれ、生きていくというのならーその「幸せ」の形を見せてくれ。ここを目指せばいいんだ、と教えてくれ。これをつかめばいいんだ、と教えてくれ。

(中略)

 「幸せ」の形など、わからない。ただ、会いたいひとがいる。つながりたいひとがいる。離れていても決して忘れなかったし、自分のことも決して忘れられたくない、そんなひとが、一人だけ、いた。

その数はついに一人まで減ってしまったけれど、シュウジは「ひと」に生の目的を託すことができた。人を一人殺して、新しく信頼できる「ひと」になりかけていた同僚に初めての給料を盗まれて、それでも「ひと」とつながりたくて今日を生きていた。

本当に理解できなくて、なんなら少しだけ羨ましくて、その信念が何でできているのか知りたくなる。報われることが生きる動機であるべきではもちろんないけれど、私はニンジンもなく走り続けられる馬じゃない、とたまに思う。何かを奪われたわけでもないのに、底がすり減って仕方なくて、もう何も出てこないような気分がすることがある。でもシュウジは、何を奪われても、「ひと」への信頼を枯らすことはない。「ひと」をよりどころに生きることができる。もしまた裏切られたら?って私なら思うけど、シュウジはそれだけじゃなく、「ひと」を「ひと」とつなげることで救おうとする姿勢もやめない。神父は兄を救えなかったけれど、落書きした電話番号にかけてくる人はエリを救えるかもしれないって思う。

こうやって、「ひと」とつながることを無条件で肯定する姿勢が私をも救ってくれるのかもしれない。なぜシュウジがこれをひたむきに信じられるのか、私には答えが見えないけれども、だからいいのかもしれない。言及もされないほど、シュウジにとって当たり前のことだということが、私の胸を打ち、生への渇望をもたらしてくれるのだろう。私にはこんなに「ひと」を信じる未来は訪れないような気もするけれども、幸せではない何かが、こんなにも強固に生を支えうるという事実が私にとっての救いになるのだ。

 

神父は手紙の中でエリとシュウジが似ていると書いたけれども、私はシュウジは宮原雄二と似ていると思った。でも、よくよく見ると宮原雄二ともまた違う。

だから、うそだ。かこもみらいもぜつぼうもきぼうもつみもばつもしあわせもふしあわせも、ほんとうは、さいしょは、もともとは、ことばなどないせかいにあったものなのだ。おれはことばなどおぼえるのではなかった。ことばさえなければ、おれはあんなにくるしまずにすんだ。ひとをころさずにすんだ。あにをにくまずにすんだ。おれにはことばはいらない。おれは、からっぽのぜつぼうでありたい。からから、からっぽのおれが、ぜつぼうだ。俺たちは、同じだ。ことばとは、なんだ。ひとがかいわをするためのものだ。だが、おれにことばをかわすあいてはいない。ことばをかわすあいてがいないおれには、ことばなどいらない

宮原雄二はこう言うけれど、シュウジにとってことばは「ひとり」になってからもっと使うようになったものだ。

 ひとりごとが増えた。

 「ひとり」で過ごすおまえは、意外とおしゃべりな少年だった。

連続放火犯の正体がシュウジの兄だったことが判明して、シュウジはいじめられるようになる。「ひとり」であることへの思索は、これをきっかけに始まったのだ。もしかすると、宮原雄二の言う通りことばは人と会話するためのもので、思索を通じてことばを使うようになったからこそシュウジは逆説的に「ひとり」になりきれなかったのかもしれない

「言葉が、あなたをつなぎ止めてくれます。聖書には、にんげんをこの世界につなぎ止めてくれる言葉が、たくさんあります」

この牧師の言葉通り、この小説には聖書の引用が何度も出てくる。シュウジは、この世にとどまりたかったのだろうか。エリとシュウジは、人を刺したあと、新幹線の中で聖書を開いた。そういえば、エリと再会してから、「ひとり」のときのことばは急に出てこなくなっていた。じゃあ、やっぱり、ことばは人と話すためにあったのだろうか。彼は家族を次々に失って、「からから、からっぽ」を目指して、その先にエリと「ふたり」になれたなら、それはよかったと言うべきなのだろうか。だけどやっぱり、誰よりも家族を思いやっていた中学生がこんな風になるの、割に合わないよなあって、何回読んでも思ってしまうなあ。そのシュウジが「ひと」を信じ続けていたことが、私が「ひと」とつながることを諦めずに済んでいる、最後の頼みの綱になっているというのは皮肉な話なのかもしれない。

韓国映画『パラサイト 半地下の家族』を見て

『パラサイト』、ネットでめちゃくちゃ高評価なので見に行ってみました。

キム家とパク家、綺麗に貧富の境界線が引かれた描写が見所です。ネタバレになってしまうのでストーリー展開は言えないのですが、とにかく社会問題を扱う映画である一方で、それこそドラマ『24』みたいなスリリングも、そして三谷作品のようなコメディも交えた、本当に面白い映画です。10点中でいうと9点くらい!最後までどう転ぶのか全くわからなくて、後半はドキドキハラハラが止まりませんでした。

どちらもパルム・ドールを受賞したことで『万引き家族』が引き合いに出されることもあるようですが、『万引き家族』は貧しい家族の内側の物語だったのに対して、『パラサイト』は貧富の対比と、遠く隔たれていたはずの両家が深く絡み合ってしまったことで起こった化学反応に焦点を当てています。

このようなテーマが扱われるに至った韓国の背景を知るには、このページに詳しいです。私がこの映画を見ようと思ったのもこのページを読んだからですが、ネタバレが含まれているのでお気をつけください。

miyearnzzlabo.com

とにかくパク家が想像以上のお金持ちでびっくりしました。韓国ドラマによくある、財閥系ではないんですよ。一代で富を築いたIT系の経営者で、でも成金っぽさはなくて、家の中も無駄なものはないのにお金持ちだということが一目でわかる、洗練された空間でした。ただ子煩悩で子供の教育にはお金をかけるので、そこにキム家はつけ込んでいくわけです。あとキム家とパク家で子育てのスタンスが違うというか、もちろん割けるリソースに天と地の差があるので当たり前ではあるのですが、それにしてもやはりお金は精神的な余裕をも生むのだということがよくわかる演出でした。お金のないキム家のお母さんが「パク家の財産が全部私のものだったら、私はもっと優しい人間になってるよ」という旨の発言をしていたのがそれを象徴しています。

ただ、私が一番印象に残ったのは、劇中で起こるある出来事がキム家にとっては致命的なことだったのに、パク家にとってはただの日常の一コマに過ぎなかったことです。裕福な家と貧困にあえぐ家、その出来事からどのような影響を受け、どう受け止めるのか。視覚的にわかりやすい衣食住だけではなくて、もっと根本的な、もっとどうしようもないところでこそ隔たれているのだと見せつけられる、とても良い作品でした。

あの2つの家庭を2時間にわたって見ても、同じ時代に同じ国で生まれた以外の共通点が見つけられなかったんです。もし一時的に両家庭の人々が同じような身なりをしていたとしても、きっと見分けることができてしまう。だって表情が違う、仕草が違う、考え方が違う。とても一世代で追いつける差だとは思えなかったんですよね。むしろ、対等になるとか追いつくとか、そういう考えがそもそも浮かばなかった。21世紀の話なのに、階級が違うようにしか見えなかった。別に同じレベルの生活を送っている必要はないんです。年齢に関係なく、ある家族がある家族に丸ごと服従している、しかも子が親に敬語を使うくらい年功序列が徹底している韓国で。経済が発展して、王侯貴族以外に富が行き渡って身分制が打破されたのに、またしても実質的な身分制社会が訪れようとしているのかもしれません。

ただパク家は先祖代々のお金持ちというよりは、事業に成功して一代にしてお金持ちになった家庭ですよね。でも、そのことが希望をもたらしてくれるとは思いません。私はむしろこの後の世代の方が問題だと感じています。パク家の長男のように、小学生に入るか入らないの頃から専属の家庭教師をつけられて、オーダーメイドの良質な教育を受けて、その結果現代で優れた資質だとされている「リーダーシップ」とか「クリエイティビティ」とかが身につかないわけがないと思うんですよね。

学歴の再生産とかそういうレベルじゃなく、「天才」になることだってできるんじゃないでしょうか。「クリエイティビティ」とかなんとか言っても結局完全なる0から100を一人で生み出さないといけないわけではないじゃないですか。0から1を生むのが得意な人材とか、1を10にするのが得意だとか、巷でいろいろ言われていますけど、そういった一極集中型の才能って絶対人為的に作れますよねスラムダンクの沢北くんも5歳から大人相手にバスケしてたからこそとんでもない高校生No.1プレーヤーになっちゃったわけで。

そういう教育が定着するようになった社会っていうのはまさに分断とか階層社会って呼べるし、そうか、それがわかってるからこそ学歴の再生産が問題視されるんですね。またしても当たり前の結論に行き当たってしまいました。賢そうなことを言うのは難しいですね。

作品自体については、あまりに気に入り過ぎて様々な人の感想を読んでしまったせいで、何を書いても自分の言葉だと思えなくなってきてしまったのでここらでやめておきます。終わり。