何も知らない

東大生が何かの感想を書くブログ

ヘッセ『車輪の下で』を読んで自分を嘆く

(ネタバレあり)

個人的に好きな光文社古典新訳文庫から出ているものを昨年読んだ。ずっと前に下書きに入れていたこの文章の存在を、韓国映画『はちどり』と漫画『BEASTARS』の鑑賞のあとに思い出し、このタイミングで手直しして公開することにした。めちゃくちゃ情緒不安定だからもう少し我に帰ったら修正すると思います。
 
この本は頑張れない自分を戒められたら、という思いで昨年読んだのだけれど、結論から言うと頑張れない人を戒める本では決してなかった。むしろ読んだあとには、誰かにそのままでいいんだよと言われているような、なんとも形容しがたい安心感に包まれた。作品の終わり方に希望はないのでグロテスクな理由しか想像できないが、ハンスよりはマシな状況にあると思えるからなのだろうか。

ただ、ハンスが神学校の中で亡くなったんじゃなくて本当に良かった。あの場で無理をしていることは伝わってきたし、そもそも深酔いしていなければ命まで落とさなかったかもしれないが、ハンスが最後にアウグストたちと華やかな一夜を過ごせたことは私にとって大きな出来事に見えた。最後の晩餐だとかそういう意味ではなく、それまでの人生でのハンスの付き合いはいつも1対1の閉じた関係ばかりだったから、大人数でバカみたいに騒ぐという新しい、そして「普通」の交友関係を持てたのは良かった。

さほど年は離れていないはずなのにハンスをどこか親のような視点からみてしまうのは、後世の人間としてハンスが特別すぎるわけではないことがわかるし、でもそのような閉じた社会でハンスが普通の人間とは全く違う存在のように扱われてしまうこともわかるからだろうか。田舎の親類の家に行くと、還暦に近い「近所の田中さん」の話をするのに必ず高校名が出てくることを思い浮かべながら、自分が彼の立場にいたら、生死はともかくやはり「潰れ」ていただろうと思う。「逃げる」とか「潰れる」とか、最初に出てくるのはそういう言葉だ。私はいつまで経ってもエリート至上主義から抜け出せない。

 

前述の漫画『BEASTARS』は、主人公のハイイロオオカミであるレゴシが、肉食獣という逃れられない自分の強者としての立場にひたむきに向き合おうとする物語だ。その中で彼は、まるでそれしか選択肢が考えられなかったかのように、嘘のようになめらかに、退学という道を選ぶ。私はその瞬間から、他に何も考えられなくなる。どうしてその道を選べるのだろう。羨ましいわけでもなく、見下すわけでもなく、でも静かに「共感」の範囲から外れていく

きっと私は感性が愚鈍で臆病だったから、ハンスのようにならなかった。「負け」たくなくて東大に入って、同じように就職先を選んで、なんとかこれから先もこの価値観に沿って生きていくことが確定した。それで安心したのか、今になってこの愚かさを声を出してもがいている。もし途中のどこかで「ドロップアウト」していたら、全世界に公開しているブログでこんな感情を叫ばなかったかもしれない。

 

私は保守的で既存の価値観を打破できない人間なので、ハイルナーにはなれないし、なりたいとも思わない。勉学にやる意味を見出せなかった神学校時代のハンスに一言言うとして、与えられた学問のうち一つでもいいから好きになれだとか、友達や趣味など生活の中にはけ口をつくれだとか、本当に陳腐なことしかいうことができないだろう。

ハンスの死に理由を求めるなら、その友達がハイルナーだったのが運の尽きとも言える。しかしこのような出会いは神学校を卒業した後でも訪れ得るし、普通の人よりも圧倒的に「自分と違う人間」に心酔してしまいがちなハンスの人格を形成したのはやはり学歴至上主義の大人たちである。

この2段落は下書きにあった、自分で書いたものだけれど、「自分と違う人間」に心酔してしまうのは私も同じなのに、どうやら去年の私はそれにさえ気づけてなかった。

いろいろな形のエンターテインメントの中から、なり得なかった自分を探して、上位のものとして崇めては、それになれなかった自分を慰める。例えば、レゴシが世間からの目というファクターを一切気にせず学校を辞められたのはかっこいいし、ハンスが陶酔できるような人とあんなに密接な関係を持てたのは羨ましい。でも私にはもう無理だなあ。こうやって、ずっと何かの「受け手」であり続けて、だからまとまった量の感想を発信することで何者かであろうとするのかもしれない。

自分の価値観がすべて借り物のような気がするのは他人の目を気にしすぎるからで、だからここ10年ほどの間に日本で書かれた小説は好きじゃない。自分のような人がたくさんいて、しかもその心情が事細かに説明されてしまうと、同族嫌悪で息が詰まりそうになるのだ。

 

さて、ここまでは散々こじらせっぷりを露呈してしまったが、ここで仕切り直してもう少し冷静にこの本について書く。

私が一番激しく動揺したのはこのシーンだ。

「理解できません」とギーベンラートはため息をついた。「あれほど才能があったのに、それにすべてうまく言っていたのに。学校も、試験もーそれなのに、突然不幸が次々に襲ってきて!」

ハンスの死を前に、こう嘆いた父親に読者がどれだけ傷ついたか、言った本人はわかるはずもない。普段私はあまり物語を深読みできない性質の人間なのだけれど、この場面ではヘッセが周りの大人たちを実に直接的に、そして痛烈に批判しているのが読み取ることができた。
「ため息」「突然」「不幸」
ハンスの死は不幸なんかじゃない。周りの好意と称したお節介が、ハンスの将来の栄光に少しでも関わった痕跡を残したいという欲望が、ハンスを殺したというのに、当事者たちは葬儀に参列してもなお自らの罪に無自覚だなんて。
 
私は中高一貫校に通っていたのだけれど、高校3年生の時に友人が「中学受験のときは自我がなかったから頑張れた。でも『勉強しない』という選択肢がある今、大学受験を頑張ることができない。」と言っていたのを思い出した。
この言葉になぞらえると、ハンスは勉強に打ち込まなければならないという環境に身を置かれ、そうでない人々に優越感を抱くような価値観まで刷り込まれていたのに、突然自我が目覚めてしまったのだろう。おそらくはヘルマン・ハイルナーという天才によって。
ハイルナーはキスしてみたり積極的にその価値観を見直すよう促してみたりというように、散々ハンスをかき乱して、そのくせ神学校をやめたあと一度も連絡をよこしてこない。これがハイルナーが天才であることの、そして天才は友人としては時に残酷な存在になり得ることの証左である。


しかし、熱心な教育の末に親の期待を全て実現する人もいる。追い詰めてしまう家庭と、うまく「実現」させる家庭には何の違いがあるのだろう。現代の様子から推測するに、親が同じ道を辿ってきたかどうかというのはかなり大きな要素であるように感じる。この本ではオットー・ハルトナーがその例だ。親をサンプルと見なすことができれば、ゴールを過度に崇拝しなくていい。韓国映画『はちどり』や中国映画『少年的你』に見られるような、「トップ大学に受かれば全てが報われる」といったまやかしを真に受けすぎずに済む。望んでいた肩書きを手に入れることは、それ自体で持続的な幸福を生んでくれるようなものでは決してないのだ。でもそれは入ってからようやく知ることができる。親の経歴とかけ離れているほど、子の達成したときのギャップは大きなものとなるだろう。


さらにハンスには、神学校を卒業したところでやりたいことが何もなかった。しかし、頭が良かったせいで大人に余分な重荷を背負わされてしまった。そう考えると、自分にとって何の意味ももたないことに青春を費やしてしまったと悟った反動があれほどまでに大きかったのもさほど不思議ではないし、ハイルナーを「ハンス自身には欠けている魔法の力で空中を歩」く人(p.131より)と評して陶酔していたのもわかる。ハンスにとってハイルナーは言葉に命を吹き込んでくれた存在なのだろう。
 
それにしても、父親のハンスへの向き合い方に違和感を覚える。例えば、父親が遺体と向き合っている時の描写(p.286)で、ハンスが「まるで何か特別な存在であるように」だとか、「花盛りのときに突然手折られて」だとか、地上に舞い降りた天使のように扱われているのを見て、子供を天使と見てしまうことの悲哀を見たように感じた。れっきとした人間なのに、優秀すぎるからか、彼にとっては天使なのだろう。母親がいない中で息子の捉え方を変える術はありそうになく、どうしようもない。これはひたすら悲しい家族の物語でもある。
 
この本に描かれている教育制度から、全体主義らしさを感じたのはきっと私だけではないだろう。ラテン語学校の校長の独白が記されたp.77あたりを読めばわかるが、一箇所だけ取り出すなら「彼の〜仕事とは、うら若い少年の生来の荒削りな力と欲望を制御して根絶し、その代わりに静かで節度のある、国から承認された理想を植えつけることだった」という部分が最もわかりやすい。現代中国が自分の関心分野であることから、教育での刷り込みのようなものが現代もなお続いていることは重々承知しているのだけれど、こうやって教育者側の立場の独白という形で見ると、思考が植え付けられることのおぞましさが際立つ。

 

最後に、この描写の切なさを訴えてこの記事を終わりにしたい。

「木の梢が切られると、その木は好んで根っこの方に新しい芽をつける。花盛りの時期に病気になり、損なわれてしまった魂は、しばしば人生の初めの春のような時期、予感に満ちた子ども時代に戻ってゆく。〜根っこに出てきた芽は潤いも多く、急速に成長する。しかしそれは見せかけの生命であって、決して一本の木になることはないのだ。」

どうしてこんなにも美しく、そして冷淡にハンスの心が壊れてしまったことを描写するのだろう。例えがあまりに風雅であるからこそ、そのコントラストからハンスの心の決壊がより切なく、残酷に描かれている。本当に表現が豊かな作品だったので、もう一作くらい読みたいと思いつつロシア文学も気になる。ひとまずやることが多すぎるので、今月末まではできれば小説・ドラマ・漫画は禁止にしたいところだ。映画はセーフ。