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韓国映画『はちどり』を見て 頑張った先に行き着く安寧はあるのか

(ネタバレあり)

今日、『はちどり』を見てきた。平日の午前なのに半分くらい人が入っていて、エンドロールのときには周りから鼻をすする音が聞こえた。映画館ならでは一体感はコロナ禍においてより一層慈しみたくなるものだが、ことにこの映画については、これだけの人がこの映画を見て、そのうちの何割かが自分と同じように共感して感情を揺さぶられているという事実に大変慰められる。見知らぬ鑑賞者がパンフレットを買っているのを見て、ああ、この人もどこかの描写に自分を見出したのかもしれないと息を吐く。この映画からどれだけの希望を見出すかという点において、「ひとりじゃなかった」というこの気持ちはかなり寄与してくれたように思う。

『はちどり』は、鏡のような映画だ。自分(直接経験したことだけでなく普段考えていることも含めて)をどれだけ投影できるかによって、映画に入り込める程度が大きく異なると思う。例えば女性と男性とでは高評価の割合が大きく変わってきそうな作品だ。

私の場合はというと、家父長制、大学受験戦争、努力は報われるという新自由主義の綻び、そして、感情はうつろいやすいのに痛みだけはいつまでも消えてくれなかったあの頃の記憶……撒き餌はたくさん見つけられたのに、分かりやすい答えは一つも与えてくれなかった。スクリーンの中に過去の傷を見たら、当時より成熟したはずの心を携えて答えを探しにいかなければならない。でも確かなのは、ひとりじゃないことだ。

恋や友情における苦難についても、あの頃の自分を思い出した。感情はすごく曖昧なもので、好きも嫌いも、 いつの間にか混じり合っていく。嫌いだけど好きだったし、好きだったけど嫌いだった。結局、その人を失った穴はその人でしか埋められないような気がして、相反する感情に折り合いをつけるという自覚もなく狭い世界で日々を過ごしていた。「昨日のは今日の友」なんて、本当にそんなことがありえたのだ。

ウニが感情を表情に出さないから、勝手に過去の自分を投影して、何度も泣いた。私にとっては、気づいていなかったあのときの傷を癒すセラピーにもなっていたのかもしれない。友達に切り捨てられたと感じたウニのつらさに共感して泣いたのか、ウニのようにつらさを主張できなかった自分を慰めて泣いたのか、わからない。

 

でも、この映画を見て最初に思ったのは、やっぱり人にはそれぞれの地獄があるということだ。ウニの家庭は見るからに歯車が噛み合っていないけれども、同じ集合住宅に住む無数の家庭にそれぞれの苦しみがあって、相対的に比べることなんてできない。

この映画は一貫してウニの視点に立っているけれど、それでもウニとの関わりを通じてほとんどの登場人物に関して、それぞれの地獄が浮かび上がっていた。いつ、どうしたら解放されるのか、みんなまだ答えを見つけられていないように思える。模索していた人、もう諦めて受け入れた人、今以外の人生が想像できない人。ウニは何が起こっても、毎日をたしかに踏みしめていく。

「もう何もかもが嫌になった、今日は何もしたくない」と思ったとき、本当に何もしないで一日を過ごせるようになったのはいつからだったろう。拒むことにも自我がいる。ウニのクラブ通いや万引きは、自我が目覚める過程で起きた感情の暴発に見える。その一方で、下記のように私が「解放」と捉えているものを、手紙の文中で「私にも輝ける日々」としたためるなど、将来への希望を所与のものとして捉えるみずみずしい感性も持っている。大人になって自分の心境を表す言葉をたくさん知ったけれども、彼女の持つ芯のようなものを手放さずにいられているのか、正直自信がない。末っ子なのに家族の中で一番気丈に振る舞っている人、それがウニの印象だ。

この2時間半の映画の中で、平凡な中学2年生であるはずのウニの身にはいろいろな災難が起こる。大きな出来事は起こらないと評する人もいるけれど、ふつうの中学生にとっては波乱の一年だったと言えるのではないだろうか。そして、よくよく考えると始まりも終わりもさほど離れていないと気づく。すなわちこの映画の中で、事態は大きく好転も悪化もしていないのだ。10年後に振り返るともっと大きな文脈の中で位置づけられるような、そんなあいまいな時間軸に私たちはいた。

 

漢文教室のヨンジ先生は休学中だけれどもソウル大学の学生だという。ウニの学校の教師も、父親も、成功を示す符号のように「ソウル大」と口にする。でもヨンジ先生が幸せで、何もかもを手に入れたように見えるだろうか。

90年代は、明らかに今よりも学歴社会だったのだろう。そこからの離脱を叫んでおきながら本質的には何も変わっていないと思っていたけれど、これでも大学受験という局所的な競争からはある程度逃れられていたのか、と本作を見るとわかる。中学受験の記憶が蘇るような宗教っぷりだ。映画『少年的你』を見る限り、中国における大学受験はちょうど今こういった様相を呈しているようであるが。

一度のテストで高い点をとっただけでそれから先の人生が救済されるなら、そんなに楽なことはないだろうーこう言えるのは私が偶然にもそれを得たからだけれど、だいたいの場合すべてを手に入れることはできない。得たものの裏には必ず失ったものがあって、大学受験を終えた私は、犠牲にしたものに「東大」より高い価値を見出すようになる。

いたちごっこである。努力して何かを目指すことには、終わりがない。いましがた「東大」の外の話をしたけれど、「東大」の後もずっと階段をのぼっていく必要がある。就職、昇進、転職、それから結婚、子育て。手に入れられなかったものも欲しいし、手に入ったものもずっと手入れが必要なのだ。大きくドロップアウトすると、「東大まで行ったのに」と言われてしまうのだから。

そうやって頑張り続けて、どこに行き着くのだろう。何を得ても結局真の満足感には辿り着けないんじゃないだろうか。昇進や子育てなど、自分の力ではどうにもならないようなところで諦めがつく人もいるだろうけど、それってずっと先のことに思えるし、そこで終われる確証もない。14歳の中学生と変わりばえせず、私も今の苦しみに一生囚われているような気がしてしまう。

 

パンフレットでは、戦後の韓国における1994年という一年の存在感の大きさについて解説されている。急速な経済発展の行き詰まり、そこからの方向転換。「失われた20年」もとい30年を経ても、きっと私たちはまだまだこの映画の価値観から逃れられていない。

このように心の底から主張する一方で、自分や社会がこの価値観から独立する未来は見えない。頑張っている人がえらい、頑張らないのは悪いことだという規範の影響範囲は大きい。「高ければ高い壁の方が 登った時気持ちいいもんな」と歌われたのは1999年だけれど、令和になってもスポ根漫画は人気だし、私もエンターテインメントを燃料にして辛い日々を乗り切ってきた。

頑張ることって大体いつもしんどい。多くの人がその辛さを麻痺させるために物語を必要としていて、漫画やドラマといったコンテンツや、プロのスポーツ選手やアイドルといった他人の生き様にそれを見出そうとする。社会全体で努力信仰が保たれているとも言えるけれど、それだけ必要とされている現実があるわけで、恣意的に維持されているのではない。この映画だって、従来型のわかりやすいエンパワメントではないというだけで、寄り添うという形で鬱屈した努力信仰の延命を手伝っているという見方もできてしまうわけで。

この映画の中でも14歳ですでに親の価値観が内面化されている様子が伺えたと思うが、このようにして世代を経てもこの価値観が受け継がれてしまうのである。ただ、例えば大学受験におけるハッピーエンドが東大合格だとして、達成後も努力至上主義に苛まれ続け、その後の人生ずっと何かに追われているような気持ちで生きていくとしたら、それは良い選択だと言えるのだろうか。その先は幸せな人生につながっているのだろうか。これについては今後、個人的な問題として考える必要がある。そもそも人生における至上命題が幸福であるとする価値観自体、一元的であまり好ましいものではないけれども、それはさておき…。

こうやって書いてみると、私が映画に投影したのは新自由主義からの解脱への願望だったようだ。わかりやすく今の心境が反映されてしまった。作中で見られる(家庭内での)男女の扱いの差や過度な受験戦争について、課題意識は持ちながらもそこに自分の姿を見出せないのは、親に恵まれたということでもあるのだろう。

20年以上経っても窮屈だなあと思うけれど、男女の立場や弱者への不寛容など明らかに今よりひどい部分も多くあるわけで、こうやって少しずつ進んでいくものなのだと言い聞かせるほかあるまい。願わくば10年後にもう一度見たら、違う感想を抱けますように。