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重松清『疾走』はなぜ読者に生への渇望をもたらしてくれるのか

(ネタバレあり)

私は重松清の『疾走』という作品が、小説の中で一番好きだ。小学生の頃から、自分の教室だけでなく空き教室の学級文庫まで漁るほどの小説好きで、自分で小説家を目指したこともあるくらいだけれど、これほど凶暴な作品には出会ったことがない。 

けれども、この作品のはらむ暴力性や性描写から、友人に勧めることは憚られる。そして自分でもこの作品への感情はずっと手に負えないものだった。

なのでここで自問自答してみようと思う。

なぜ私はこの作品がこんなにも好きで、胸の痛さに比例するように生への執着を得るのだろうか。性描写の無駄な多さを理由に毛嫌いしている村上春樹の作品と同じくらい、この作品にも性描写は多く出てくるのに。

 

私にとって「おまえは」という二人称を貫く文体はあくまでもファーストインパクトであって、本題ではない。中高生で読んだときは素直に神父が語り手だと思ったけれど、いま読み直すとその解釈は自分には合わなかった。私はやはり語り手は「神」で、「神」はどこからか彼の不遇をずっと見ているのに、一度も助けてあげない。でもずっと、見ている。なんて薄情なんだろう、よくずっと見てられるね、って思う。

この小説の登場人物の中で私が一番近いのは、シュウジの中学3年のときの担任で間違いないだろう。不遇な人をちょっとかわいそうに思ったりして、何かできないか模索してみて、でもそれが受け入れられなかったら気分を害する。そんな程度の人間で、でもこの世に「まとも」に生きるにはこうするしかないじゃないかって自己正当化する。

私はこの世にシュウジが存在しないことを、この素晴らしい作品がフィクションであることを、ささやかな良心から本当に感謝しているが、それは彼の人生は「報われない人生」だったからだ。私の現在の価値観に照らし合わせると、それ以外に言いようがない。

シュウジは私よりずっと誠実で、優しくて、責任感があって、「ひと」を諦められない人だった。彼は「ひとり」を志向しているけれども、でも彼をかたちづくるのはいつだって他者と、他者との関係における自分だった

そんなにまともだと、人を殺すような人ではないと言うなら、シュウジはもう一人の私と言えるのか?彼ほどのボタンのかけ違えがひとたびに起こったらー兄が放火犯だとわかって、一家離散してしまったらー自分も中卒で地元から出て、人を殺して、昔好きだった子と再会して、人を殺した罪を自分だけでかぶろうとしただろうか。

答えは絶対にノーだ。ありえない。シュウジの選択には全く同意できない。シュウジの人生では、サイコロで6が出てほしいときに決まって1が出るし、そのほとんどは人災に見える。なのに、それでも人と交わることを本当の意味で諦めていない。

私なら絶対に諦めて、折り合いをつけて、本当に「ひとり」で生きていくのに。

 

仲間が欲しいのに誰もいない「ひとり」が、「孤立」。

「ひとり」でいるのが寂しい「ひとり」が、「孤独」。

誇りのある「ひとり」が、「孤高」。

エリは、まちがいない、「孤高」の「ひとり」だった。

この定義に従うなら、シュウジはまちがいなく「孤独」だった。彼は結局、他者との関わりでしか自分を規定できていなくて、「ひとり」であろうとするこ執着はその裏返しなんじゃないかと思う。 

にんげんのやってはならないことをする、死ぬ前に、死ぬから、死ななければならないから、お母さん泣いてくれるかな俺が死んだら泣いてくれるかな、お兄ちゃんが死ぬより悲しいかな、泣いてくれなかったら嫌だな、俺は百パーセントの「ひとり」だから誰も泣いてくれないのかな

「こんなことがあった」から死ぬのではなく、「こんなことがあるだろう」と思うから、死ぬ。ひとは首をかしげるだろうか。あきれて笑うだろうか。「だって」と返してやろう。「死なないと、ずーっと『いない』ままになっちゃうじゃないか」。死ねば、「いる」。苦い記憶になって、いつまでも奴らの記憶に残る。ざまあみろ。

兄が連続放火犯だったと分かり、父が出ていき、学校ではいじめられ、シュウジは自殺を図る。自分の手で死のうと行動に移したのはこれが最初で最後だった。結局未遂に終わるのだけれど、シュウジにとって死は「ひとり」から脱するための手段のように見える。つまり、彼はずっと生きる意志のある者だったと言えるのではないだろうか。彼が殺した新田と同じように。

このあと、自殺を盾に陸上部が出場するロードレースを中止させようともしていた。脅迫電話の甲斐なくロードレースは開催されたけど、シュウジはやっぱり死ななかった。

 

 

長くなったけれども、なぜ私はこの作品から生への渇望を得たのだろうか、という問いへの答えについて。

 幸せになるために人は生まれ、生きていくというのならーその「幸せ」の形を見せてくれ。ここを目指せばいいんだ、と教えてくれ。これをつかめばいいんだ、と教えてくれ。

(中略)

 「幸せ」の形など、わからない。ただ、会いたいひとがいる。つながりたいひとがいる。離れていても決して忘れなかったし、自分のことも決して忘れられたくない、そんなひとが、一人だけ、いた。

その数はついに一人まで減ってしまったけれど、シュウジは「ひと」に生の目的を託すことができた。人を一人殺して、新しく信頼できる「ひと」になりかけていた同僚に初めての給料を盗まれて、それでも「ひと」とつながりたくて今日を生きていた。

本当に理解できなくて、なんなら少しだけ羨ましくて、その信念が何でできているのか知りたくなる。報われることが生きる動機であるべきではもちろんないけれど、私はニンジンもなく走り続けられる馬じゃない、とたまに思う。何かを奪われたわけでもないのに、底がすり減って仕方なくて、もう何も出てこないような気分がすることがある。でもシュウジは、何を奪われても、「ひと」への信頼を枯らすことはない。「ひと」をよりどころに生きることができる。もしまた裏切られたら?って私なら思うけど、シュウジはそれだけじゃなく、「ひと」を「ひと」とつなげることで救おうとする姿勢もやめない。神父は兄を救えなかったけれど、落書きした電話番号にかけてくる人はエリを救えるかもしれないって思う。

こうやって、「ひと」とつながることを無条件で肯定する姿勢が私をも救ってくれるのかもしれない。なぜシュウジがこれをひたむきに信じられるのか、私には答えが見えないけれども、だからいいのかもしれない。言及もされないほど、シュウジにとって当たり前のことだということが、私の胸を打ち、生への渇望をもたらしてくれるのだろう。私にはこんなに「ひと」を信じる未来は訪れないような気もするけれども、幸せではない何かが、こんなにも強固に生を支えうるという事実が私にとっての救いになるのだ。

 

神父は手紙の中でエリとシュウジが似ていると書いたけれども、私はシュウジは宮原雄二と似ていると思った。でも、よくよく見ると宮原雄二ともまた違う。

だから、うそだ。かこもみらいもぜつぼうもきぼうもつみもばつもしあわせもふしあわせも、ほんとうは、さいしょは、もともとは、ことばなどないせかいにあったものなのだ。おれはことばなどおぼえるのではなかった。ことばさえなければ、おれはあんなにくるしまずにすんだ。ひとをころさずにすんだ。あにをにくまずにすんだ。おれにはことばはいらない。おれは、からっぽのぜつぼうでありたい。からから、からっぽのおれが、ぜつぼうだ。俺たちは、同じだ。ことばとは、なんだ。ひとがかいわをするためのものだ。だが、おれにことばをかわすあいてはいない。ことばをかわすあいてがいないおれには、ことばなどいらない

宮原雄二はこう言うけれど、シュウジにとってことばは「ひとり」になってからもっと使うようになったものだ。

 ひとりごとが増えた。

 「ひとり」で過ごすおまえは、意外とおしゃべりな少年だった。

連続放火犯の正体がシュウジの兄だったことが判明して、シュウジはいじめられるようになる。「ひとり」であることへの思索は、これをきっかけに始まったのだ。もしかすると、宮原雄二の言う通りことばは人と会話するためのもので、思索を通じてことばを使うようになったからこそシュウジは逆説的に「ひとり」になりきれなかったのかもしれない

「言葉が、あなたをつなぎ止めてくれます。聖書には、にんげんをこの世界につなぎ止めてくれる言葉が、たくさんあります」

この牧師の言葉通り、この小説には聖書の引用が何度も出てくる。シュウジは、この世にとどまりたかったのだろうか。エリとシュウジは、人を刺したあと、新幹線の中で聖書を開いた。そういえば、エリと再会してから、「ひとり」のときのことばは急に出てこなくなっていた。じゃあ、やっぱり、ことばは人と話すためにあったのだろうか。彼は家族を次々に失って、「からから、からっぽ」を目指して、その先にエリと「ふたり」になれたなら、それはよかったと言うべきなのだろうか。だけどやっぱり、誰よりも家族を思いやっていた中学生がこんな風になるの、割に合わないよなあって、何回読んでも思ってしまうなあ。そのシュウジが「ひと」を信じ続けていたことが、私が「ひと」とつながることを諦めずに済んでいる、最後の頼みの綱になっているというのは皮肉な話なのかもしれない。