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東大生が何かの感想を書くブログ

映画『ミッドナイトスワン』を見て 恋愛感情の描かれない世界

(ネタバレあり)

草彅剛さんの演技が凄まじいという高評価を多く耳にして、久々に映画館に足を運んできた。結論から言うと個人的にはあまり好きになれなかった。とにかく雑にいろいろ詰め込んでいて腹が立つ。トランスジェンダーか、普遍的な愛か、光が当たるほど影も濃くなる天才か、描きたかったのはどれなんだろう。もちろんすごく良かった場面もあるけど、ディテールが際立つほど全体的な粗雑さが悔しい。脚本だけで胃もたれしそうなのに、カメラの構図も音楽も過剰に扇情的で、ここまでドラマチックにしないとトランスジェンダーの苦悩を描けないわけはないだろうと少し悲しくなった。

そもそも、凪沙さんがトランスジェンダーである意味をまるで感じなかった。シスジェンダーの女性でも男性でもバレエのつながりを描くにはあまり問題はないように思うけど、そうすればきっと陳腐な作品になってしまうのだろう。シスジェンダーでもトランスジェンダーでも成り立つ役がトランスジェンダーである意味はあるというか、そういう前例が続くことでいつかは悲劇的でないトランスジェンダーが描かれる土台ができるだろうという意味づけはできるけれども、繊細さに欠ける脚本からそんな慎ましい意図を見出すことは私にはできなかった。

この映画は、トランスジェンダーとして苦しむ凪沙さんのストーリーと、意に反して周りの人たちを飲み込んでしまう天才一果ちゃんのストーリーが混じり合ったものだったと思う。後者の重みが大きくなりすぎてバランスが崩れた原因は、やっぱりりんちゃんの死ではないだろうか。あの二人の関係をそれなりに丁寧に追ってきたはずが最後でりんちゃんが一果ちゃんの「養分」になったようにしか見えなくて辛かった。

ちなみに、個人的にりんちゃんと一果ちゃんの関係性は恋には見えなかった。りんちゃんが一果ちゃんに最初優しくしたのは暇つぶしにエイリアンだか捨て猫だかのを拾ったくらいの感情でしかなくて、その後一果ちゃんがぐんぐんと実力をつけていくうちにまさに飼い猫に手を噛まれたと感じて報復に個撮に参加することを提案した。友情と良心、どちらによるものかはわからないが、りんちゃんは予想に反して深く反省し、それ以降は大人しく一果ちゃんの成長を見守るようになる。あのとき屋上でキスしたのは、良心による自制からこぼれ落ちた支配欲からではないだろうかというのが個人的な見解だ。キス以降わかりやすい描写はなかったが、りんちゃんの病院にまで付き添う一果ちゃんや、二人でいるときのなんとも言えない湿った雰囲気からはただの友情にも見えなかった(この辺りの撮り方もすごく上手いと思う)。ただそれはやっぱり恋愛というよりは共依存のような、他に行き場のない感情をお互いにぶつけているだけに見えた。いうまでもなく一果ちゃんにとってりんちゃんは恩人であり、りんちゃんにとっても一果ちゃんは無二の存在だった。一果ちゃんの短期間での上達は間違いなくりんちゃんの自尊心をひどく傷つけただろうけれど、その後も一緒にい続けるならば、その劣等感が「特別な感情」に昇華されるまでそんなに長くかからない気がする。「特別な感情」を具体的に説明すると、ふつうの友達には抱かない憧憬の念だったり、身近な存在にそれを抱えることで生じる倒錯した心情(幸せを願いたいのか不幸を願いたいのかわからない辛さみたいな)だったり……要するに、必ずしも特別=恋愛ではないと思う。

そもそもこの映画の主題が普遍的な愛とされる割にいわゆる「まとも」な恋愛はあまり出てこない。一果ちゃんの母親はシングルマザーだし、凪沙さんに恋人はいないし、瑞貴さんは明らかに等価交換でない恋愛をしている。こう書くと双方向の恋愛関係を省くことで「普遍的な愛」にフォーカスを当てようとしたのかとさえ思えてきて、もしそうであれば脚本への悪口をいくつか引っ込めなくてはならなさそうだ。凪沙さんと一果ちゃんの愛は明確に双方向だけれど、そうでないものまで含めようとしたのならもっと面白い。一果ちゃん母の無邪気すぎる子育ても、彼女なりの愛の発露だったかもしれない。りんちゃんの一果ちゃんに対するままならない感情も、まだ幼いなりに彼女が憎いほどの才能ごと一果ちゃんを受け入れようとしたという意味では一つの愛のあり方だったのかもしれない。

 

もう一つ細部でどうしようもなく好きなところがあって、冒頭のバレエの先生の人物描写が素晴らしかった。大人なので、間違いなく何か事情がある一果ちゃんにもきちんと対応をする。けれでも決して聖人ではない。そんなことは才能ある生徒への指導にのめり込むあたりから存分に察することができるけれども、その一つ手前、一果ちゃんの体験レッスンでの振る舞いが完璧だった。バレエの経験があると口では言っても、明らかに裕福な家庭育ちではない一果ちゃんを一番前の真ん中に立たせる。気になったことを一果ちゃんに友好的とはとても言えない教室の中で構わず聞く。悪意があるわけではないけど、とりたてて善意も見られなかった。一果ちゃん母のように、引いた線の「内側」の人にさえ優しくできない人がいる。初期の凪沙さんのように「内側」の領域があまり広くなくて、気心の知れた同僚には優しくできても、遠縁の親戚に冷たくできてしまう人がいる。性に関係なく、自分の人生を生きるだけでいっぱいいっぱいな人はこの世にごまんと存在しているだろう。あまりバックグラウンドに触れられず、才能を見出した生徒に月謝の肩代わりを申し出たり出張授業を行ったりするくらい入れ込むことができる先生は、この映画の中で比較的余裕がある人物だと思われる。その先生でさえ「外側」の人にまで毎度毎度優しくしていられるわけではない。

先生は一定の信頼関係が築けてからは凪沙さんに対して全く偏見をぶつけることなく接していて、えこひいきされなかった生徒にとっては「良い先生」ではないだろうけれども、凪沙さんに一番感情移入した私にとってあの先生はリアリティのある範囲で「良い人」だったと言える。凪沙さんにフラットに接したのは、愛する才能の持ち主の保護者だったからかもしれないし、月謝を支払う・支払われるという明確な関係のもとだったからかもしれない。理由があってもなくてもいい。みんなに「良い人」だと思われるような聖人君子なんていなくてもいい。この映画の、誰かに理想郷を押し付けないところはとても好きだ。

 

鑑賞直後の感想に反して褒め言葉が続いてしまったが、ここからは本題の批判に戻る。

2時間くらいある映画なのに、序盤からやけに飛ばしていると思えば後半さらに加速していって驚く他なかった。一果ちゃんが転校初日にクラスメイトの男子を椅子で殴ったところは、母親から暴力的資質を受け継ぎかけていたところバレエや凪沙さんという光に導かれて脱せた、というように下限の可能性を提示することでその後とのコントラストを強調したかったんじゃないかと感じたけど、それにしても雑すぎないだろうか。かっとなって椅子で殴るっていうのは結構な暴力性で、セリフがほとんどない分一果ちゃんをここで感情移入の外に出してしまったらしばらく挽回できるところがないのに…と惜しくなった。私は最後まで一果ちゃんに共感することはできなかった。孤高の天才が描きたいだけなら観客の共感は不要だろうが、双方向の愛を見出すにはどちらに対してもある程度の共感が必要だろう。

あと、瑞貴さんがモブの頭をモップでかち割ろうとするシーンは必要だっただろうか?モブたちが、凪沙さんをはじめとするトランスジェンダーの方々を前にして絶対に地雷を踏むのも安直すぎる。凪沙さんが男装して行った面接の女性面接官の対応がモブの中では一番マシだったけど、あくまでもベターであってベストではないあの微妙な空気感を見事に再現しているあたり、やればもっとできそうなものを、罵詈雑言の使い古された感じは本当にひどかった。瑞貴さんは傷害事件を起こして、社会的な死を迎える。凪沙さんはここでは残るが、結局は亡くなる。結局最後に残ったのは一果ちゃんだけ。この弱肉強食のような構図が無性に嫌いだ。

個人的に、自立している様子や苦しみとの付き合い方から瑞貴さんより凪沙さんの方が「強い」人に見えた。自分のところまで堕ちてきそうな凪沙さんをつなぎ止めるのと引き換えに瑞貴さんは物語から退場した。生の苦しみと比較的共存できていた凪沙さんも、一果ちゃんという異物を内に引き入れて愛とやらを知ってしまった途端、現状維持ではうまくいかなくなって人生が狂い始めた。凪沙さんと一果ちゃんをつなぐ絆を十分に理解できていないのだろうという自覚はあるのだけれど、それにしても愛というよりは「孤高の天才」的な語りに見えてしまったのは、メインとなる二人の関係性の描き方の手前で瑞貴さんが凪沙さんの身代わりになったような形で退出したことが関係していると思う。

 

要するに、局所局所で驚くほど緻密な描写がなされているのに、全体的なくどさと古くささを感じてしまったというのが総括になる。俳優の方々の演技は素晴らしくて、凪沙さんが性転換手術をした後実家に帰るシーンは鳥肌が立った。草彅さんは最初から最後まで期待通りすごかったけど、凪沙さん母の演技にもびっくりした。自分を持て余した富裕家庭の女の子が性産業に走る様子は使い古されてて本当に嫌になったけど(同じ産業なのにより切実な凪沙さん側の世界との対比にしたかったとしても)りんちゃんがどうしようもなく好きだった。以上。